コトバ・シグサ・アイ

二宮神山担の思うこと

好きになったアイドルは、怪物でした。【舞台 オセローのイアーゴー役 神山智洋】

神山智洋という人は、怪物なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

美しくも不気味な物悲しい歌声が響く。幕が上がり、舟が1隻、2隻と出てくる中、軍人イアーゴーとその友人ロダリーゴーを乗せた舟が現れて、2人が話し始めるシーンから物語は始まる。

観劇のマナーは分かっているけど、自担が出てきたらもしかしたらちょっと声が出ちゃうんじゃないか、なんて心配もしていた。気をつけなきゃなんて思ってたけれど、その必要は全く無かった。

背格好も顔も声も身のこなしも知っているはずなのに、そこにいるのは私の応援しているアイドルの神山くんではなく、確かにイアーゴーだった。神山くんはどこにもいない。そう確信した途端、グッと「オセロー」の世界に引きずり込まれた。

イアーゴーが神山くんを喰らい尽くしてしまったのではないか、なんて考えも浮かんだが、カーテンコールで力強いガッツポーズを見せたり、共演者さん達と楽しそうに手を振ったりする神山くんの姿が、私の安易な心配を吹き飛ばしてくれた。やっぱり私の応援している神山くんは、強い人だった。

 

 

 

 

 

それから私の頭から、「オセロー」が離れなくて仕方なくなった。私は2度観劇した後、しばらくイアーゴーについて考えた。

私は昔から100%真っ黒な悪なんて存在しないと思っている。信じているのではなく、そうだと思っている。そして、自分の応援している神山くんの身体を借りてイアーゴーが起こしたことだからだろうか、どうしても彼をただの悪人という言葉で片付けたくなかった。イアーゴーは本当に、極悪非道な悪魔だったのだろうか。

 

 

「ああ、嫉妬にお気をつけください、閣下。それは緑の目をした怪物で、己が喰らう餌食を嘲るのです。」

 

イアーゴーの騙しが始まった時に、イアーゴーがオセローに語りかける台詞。「緑の目をした怪物」とはまさしくイアーゴー本人のことを表しているとされている。

 

では、怪物とは何なんだろう?インターネットで辞書を引くと、このように出る。

1 正体のわからない、不気味な生き物。
2 性質・行動・力量などが人並外れた人物。

 

 

イアーゴーは2の意味での「怪物」だと私は思う。2は、いわゆる「怪物番組」や「モンスターバンド」などの言葉で使われる、つまり他者の追随を許さないほどの才能を持つ、という意味だ。

 

イアーゴーは元々恨んでいたあるオセローとキャシオーに限らず、デズデモーナ、友人のロダリーゴー、妻のエミーリア、キプロス島に渡った軍人たちにまで恐ろしい結末をもたらしてしまった。言葉の毒でここまで陥れたその力はまさしく非凡の才である。

 

また、イアーゴーが話した「嫉妬」という名の「緑の目をした怪物」は、イアーゴーそのものではなく、そのまま「嫉妬」という感情を1の意味での「怪物」に例えたものだ。そしてその「嫉妬」という名の「怪物」は、イアーゴーを餌食にして喰らった。

喰らったとはつまり、「嫉妬」という感情で頭がいっぱいになり、「嫉妬」に飲まれてしまったということだ。その結果、イアーゴーは人に不幸をもたらす天才的な悪魔の力を持つ2の意味の「怪物」に成り果てた。

この作品には、「嫉妬」と「イアーゴー」、2匹の「怪物」が存在している。それらは全く別物だ。

 

 

「嫉妬」とは人の持つ感情であり、感情は可視化して他者に100%理解してもらうことはできない。だから感情というのは「正体のわからない、不気味な」ものだ。他者の感情を100%理解することはほぼ不可能だ。

 

そして、他者の感情を理解することが難しいと同時に、そんな感情を思いのまま操るなんてことも非常に難しいことだ。だけど、ふと友達と会話をしている中で、『自分が今こんな言葉をかけたら相手はこう思うかもしれない』と想像することは出来る。そしてそれがそのまま起きて、その友達が幸せな気分になったり不快に思ったりしたなら、それは「思いのまま操っ」たということになる。この現象はなんてことの無い日常の中でも、起こりうることだ。

 

イアーゴーは「嫉妬」に喰らわれたことで、この『他者の感情』を操作する能力が異常に進化したんだと思う。旗手という地位が気に入らないイアーゴーが単純に副官になりたいだけなら、誰かを惑わすなんて回りくどいやり方より、噂を流してキャシオーの評判を落としクビにさせれば済む話だ。しかし「嫉妬」に喰われた「怪物」イアーゴーは、そんなことじゃ満足できなかった。歯止めが効かなくなってしまったんだと思う。

 

イアーゴーがオセローを憎む理由として、人種の違い、エミーリアとの噂など色々挙げられるが、私は新訳版のあとがきにある「男性性」という言葉が気になった。

あとがきによると、イアーゴーは元々「男性性を失った男」だという。男性性とは、平たく言えば「男らしさ」の事だ。

 

今作は現代社会では考えられないくらいの男尊女卑がところどころ目立つ。キリスト教が根深いシェイクスピアの時代の作品だからその設定にとやかく言いたい訳ではないが、この時代の男性は現代社会より何倍も「男らしさ」を大切にしていたんだと思う。妻は夫に仕える。妻は大切にしてもらえない。終盤のエミーリアとデズデモーナの会話から、当時の男性像が想像できる。イアーゴーはその「男らしさ」に自信がなかった。だからエミーリアが不満に思うほど「男らしさ」を振りかざしていたんだろう。

そのイアーゴーに対してオセローは、男らしさの塊のような人だ。生まれた国が違うにも関わらず、異国の地で将軍にまで上り詰めた才能と自身の経歴に対する絶対的な自信を持ち合わせている。妻デズデモーナもそんな彼に常に忠実でありながら、自分の意見もしっかり持っている強い女性だ。イアーゴーにとってはオセロー夫妻ほど羨ましいものは無い。だからここまで「嫉妬」を抱き、妬み憎んでしまったのだろう。

オセローの強みであった「異国の地からやってきたこと」を、強みであると同時に弱みであると気づき、それを利用して「将軍はわからないだろうが、ヴェニスの女はこうなんです」と囁いた。オセローはデズデモーナを愛しい妻ではなく、自分には理解できない「遠い異国の女性」であると思ってしまったことで、オセローの絶対的な自信は崩れ、あんなに愛おしかったデズデモーナを疑うようになってしまった。

 

イアーゴーは「嫉妬」を抱いたが、その「嫉妬」に自分が喰われ恐ろしい結末を生み出そうとしているなんて、気づけなかった。

 

 

「嫉妬」という怪物に心を飲まれ、オセロー夫妻の仲を引き裂いたイアーゴー。そんな彼の罪は、オセローがデズデモーナを殺した寝室にエミーリアやキャシオー、軍人たちが入ってきたところでついに明るみになった。オセローは皆の目の前で自害してしまうが、イアーゴーの罪は裁かなければならない、となったところで、寝室に入り込んできた盗賊(?)たちにより皆は襲われ息絶えてしまった。オセローに脚を切りつけられたことにより負傷していたイアーゴーだけは襲われず、最後の力を振り絞り、オセローとデズデモーナ、妻エミーリアがそばで横たわるベッドに辿り着いたところで幕は降りる。

 

原作にないラストシーンは、様々な考察がされている。イアーゴーはあの後死んだのか、生きているのか。私は、生きていると思う。

キプロス島というヴェニスから離れた土地から帰ってきた生き残りがイアーゴーだけなら、イアーゴーは好きに事実をねじ曲げることが出来る。「皆は敵国に襲われたが、自分はなんとか生き延びることができた」とでも言っておけば、自分が生み出した悲劇のことは簡単に無かったことにできるし、その後ヴェニスでのうのうと生きることも容易い。

イアーゴーは友人ロダリーゴーと妻エミーリアを自らの手で始末し、オセローたちを陥れた「怪物」である。だが、彼も「怪物」である前に1人の人間だ。きっと「嫉妬」に喰われた当初は、人を殺そうなんて考えもしなかったはずだ。デズデモーナの哀れな叫びを聞き、鏡に写った「怪物」の自分を見た時にはもう遅かった。

自分の地位を確立させたかった、男性性が欲しかった。妻と理想的な関係になりたかった。イアーゴーはただそれだけを求めていただけなのかもしれない。そんなイアーゴーを喰らった「嫉妬」という「怪物」は、イアーゴーをひとり残し罪を背負わせ、そんな哀れな姿を永遠に『嘲る』のだろう。

 

 

 

ここまで書いて、壮絶なイアーゴーの運命を持ち前の情熱とハングリー精神で最後まで演じ切った神山くんの凄さを改めて感じた。シェイクスピア劇の中でもハムレットに次ぐセリフ量を覚えるのは勿論、妬みや恨み、どす黒い欲望を抱えながら1ヶ月休みなく演じ続けることは、言葉に表すことが出来ないくらい苦痛の日々だったと思う。

前述の通り、イアーゴーは「怪物」、すなわち『性質・行動・力量などが人並外れた人物』だ。こんな難役をやり通すことが出来た神山くんも、イアーゴーと同じ「怪物」かもしれない。

 

ここで、神山くんが「オセロー」出演にあたり掲載された雑誌から、神山くんを表した文面を引用する。

相反するものを同時に持つ人

静かな強さと軽やかな柔軟さ、今っぽくない頑固さと今っぽいセンス、そして関西人の思い切りの良さと東京人のクールさ、言い表すなら、新しいハイブリッドアイドル。

TVガイドperson インタビューの冒頭より。

不器用な誠実さと器用な切り替え。光る調整力で多彩な可能性を秘めたグループを支える実力派。

STORY 超絶男子図鑑のキャプションより。

 

神山くんを「熱い人!」「クールな人!」と一言で表すことが難しかったのは、彼がその両方を持ち合わせているからだ。神山くんはあらゆる「両方の要素」も持ち合わせている上に、その両極端な力を調整する能力に長けている。だからこそ、神山くんは色んな色になれるんだと思う。神山くんが平成最後の夏に出演した作品3本を並べるだけでも、それは一目瞭然だ。

頭が良く真っ直ぐで、大切な人の身体を取り返すために悪を演じることができる、スペックが高すぎる 水本役を演じた「宇宙を駆けるよだか」、北町奉行 金さんの部下として、江戸っ子達の近くで役人として奮闘する健気で可愛らしい小柴役を演じた「名奉行!遠山金四郎」。そしてイアーゴー。

今年の作品だけでもキャラが違いすぎるのに、ここにカミヤマ駆や木暮くん、みんな大好き遠山先輩なんて入れたらキリがない。神山くんは本来の芯の通った性格から、持ち前の調整力でどんな色にもなれる。これは俳優業に限らず、本業のアイドルとしての力にも言える。歌、ダンス、アクロバット、作詞作曲、楽器演奏、衣装案、挙げたら本当にキリがない。

 

 

 

そう、気付いてしまった。

 

神山智洋という人は、本当に怪物なのかもしれない。