コトバ・シグサ・アイ

二宮神山担の思うこと

死人の季節がやってくる!#幽霊はここにいる 感想

人は誰しも"何かをやってみたい"と思う…鏡に自分の姿を映してみたくなるように。

 

 


「幽霊はここにいる」感想をようやくまとめられた…!

ナンセンスで夢夢しい、とはどんなお芝居なのか想像もつかないまま、原作本も読まないまま身一つで乗り込み味わって参りました。あの不思議なふわふわした、その上重苦しくて、尚且つ愉快な体験、生きて来た中では経験したことの無い感覚だった。では、思ったことをダラダラと書き連ねていきます。考察もどきあり。パンフレットにある記述も少しだけ拾います。全てにおいて素人です!!!

 


不思議な男、深川

まず特徴的なセットに驚いた。カーテンの中から現れた、砂を敷き詰めた大きな円。上から細く真っ直ぐ落ちる砂を傘で受ける深川の意味深な画で始まった。まるで深川を頭から突き刺すように落ちてくる砂は、雨のように見えて、深川にのしかかる負の感情にも似ているかもしれない。なんて後から思い返した。

序盤から、自分が連れている幽霊に対しての思いを訴え続ける深川の純粋過ぎる様子は凄く恐ろしかった。大庭や箱山から「演技にしてはちょっと出来すぎている」と何度も言われているように、本当に幽霊の事しか考えていないように思わせる純粋が故の怖さ、危うさ。今まであまり感じたことの無いヒリヒリ感だった。深川の言動を信じざるを得ない程、正気でありながらまさに"取り憑かれている"様子なんだろうな。(まあ初めから正気では無いのだけど)

なぜ深川は幽霊と会話できる事をそこまでオープンに出来たんだろう?その日の食事さえ困るような環境下。気狂いと思われて自分から人が離れていく事より、無理矢理にでも自分のそばにいる幽霊を優先するという、常人には理解し難い思想が最初の出会いのシーンから少しずつ滲み出ていたんだと思う。素直で可愛い風に見せて、そのまま純粋な口ぶりで怖いことを言う深川。神山担という視点を持つ自分からするとまぁ可愛いのだけど、そんなヲタクの気持ちさえ見透かすような恐ろしさもあった。

 


戸籍の歌

ヒカリ電器で死人の写真買取を始めた深川と大庭。偵察に来た新聞記者の箱山も巻き込みながら、幽霊達の身元調査がスタート。ここで始まるのが深川唯一のソロ歌唱シーン、「戸籍の歌」。主人公の深川がようやく生き生きと動き出すこのシーンは神山くんの歌とダンスを堪能出来る見どころのひとつ。

ソロ歌唱があることは知っていたけれど、急に現代チックな振り付けが入るのはかなり驚いた。あそこまで急に生き生きと動く深川に違和感を感じるのは、序盤の気弱で大人しそうな感じから一転して、本来の目的である「戦友の幽霊の身元探し」=「今生きる目的」を実行に移して文字通り生き生きしたからなのか。急に神山智洋に戻るメタい感じはヲタクにとっては好物でした。

 

戦友の幽霊を通じて他の幽霊達の身許を調べていく深川だが、深川と「戦友の幽霊」の目的はあくまでも「戦友の幽霊」の身許調査。ひとつでも死人の写真に目を通したい(戦友に目を通してもらいたい)深川にとって他の幽霊達のことはついでに過ぎないはずなのに、戸籍台帳を作るまでの気合いの入れよう。深川が途中で戦友の幽霊に「これで良いよね?」と確認する台詞があり、戸籍登録のオペレーションは「戦友の」彼の提案であるらしい。この時の「戦友の幽霊」は自分の身許探しと並行しつつ、他の幽霊達の身許も調べていくことにもかなり意欲的。そんな意欲はどこから湧いてくるのか、後述する「幽霊の自尊心」からかな、と思う。

 


幽霊の自尊心

度々出てくるこの言葉。これが「家なき幽霊に愛の手を!」という箱山の記事に繋がり、街を巻き込んでいくきっかけとなっていく。いつの間にか「幽霊さん」呼びがスタンダードになっているのも面白い。

自尊心、すなわち自分を大切にする気持ち。例え死んで幽霊になろうが、この世に生を受けた1人の人間として、「人は何かを成し遂げたいと思う」と深川は言う。生きる為に何かを成し遂げるのか、何かを成し遂げる為に生きるのか。全ての人間の生き方に関わる壮大なテーマを深川は投げかけてくる。

人前に出るのは苦手だと言う深川が、何故そこまで何かを成し遂げることに執着するのか。もちろん表向きの理由は戦友の為であるけど、何もせずただ病院でうずくまる時間を経験したからこそ出る言葉なのかな、と思ったり。ただ時間を無駄にする事をせず、自分に出来ることをしたい。何かの為に動く事で生を実感できるのは現代でも変わらないと思う。むしろ止まってしまうことが恐ろしいと感じる人も中には居て、その思考に至るまでにはそれ相応の経験を経ているのかな、と。そうやって何とか生を実感したいが為の行動であることは勿論分かるけど、自分の身を投げ打ってまで続けることは、本当に自らの生に繋がっているんだろうか?結局は自分を苦しめて、生きづらくなってはいないだろうか?自分の周りの頑張りすぎてる人を見ると、私はいつもそう思ってしまう。

幽霊の自尊心を優先し、自らの人生はどうでも良いように笑っている深川。ミサコがその様子を見てむかむかしてくる気持ちが凄く分かる。結局は自分を滅ぼす行為をそんな元気にやられていたら、どうにかしてあげたくなるものだと私は思う。

 

 

赤い道・深川と幽霊の関係

箱山の記事が広まったことにより、写真の売買が盛んになっていくヒカリ電器。幽霊の存在が知れ渡り、幽霊ビジネスはどんどん派生して行く。市民たちがカーテンから現れるたびに小物が豪華になっていくシーンがめちゃくちゃお気に入り。砂の円の外側ですっごく楽しそうに歌い踊る市民と、砂の中で驚いてちょっと引いてる?様子の深川の対比がくっきりしていて、目に見てて毎回楽しいシーンだった。

そんな楽しそうで大盛り上がりな北浜の街と発展を目論む幽霊後援会とは裏腹に、次第に様子がおかしくなっていく深川。あの赤い道のシーンは胸を突き刺してくるような恐ろしさだった。目に見えないはずの恐怖が、目に見える人の形になって迫り来る。北浜の人々が忘れてしまった戦時中の記憶を持ち続け、縛りつけられている深川を改めて思い知ることになるシーンだった。目の前のものに恐怖して腰を抜かす神山くんを見て、「オセロー」の鏡の間を思い出した。あの時のイアーゴーは嫉妬心に喰われ怪物と成り果てた自分の姿を見ていたけど、深川は自分の中に眠り続けている恐ろしい記憶を見ていたのだろうか。

後に分かるように"戦友の幽霊"は実在せず、深川(吉田)の幻覚に過ぎなかったのだけど、今思い返せば戦友の幽霊が殴ってくるというシーンを疑問に思う。本物の深川曰く、深川(吉田)は頭の中で深川と自分を入れ替えてしまったようで、深川(吉田)が連れている戦友は本来の吉田と言える。

現代に生きる私の狭い視点では、戦友の幽霊は吉田の深層心理によって突き動かされていたのかな?と思う。頼まれた仕事は何でもやりたい、可愛いミサコにアタックしたい、後援会の会長や市長になりたい、とアクティブな様子は、今までできなかった事を思い切りしたい(表向きでは、幽霊の彼にさせてあげたい)という欲求だったんだろう。そんな深層心理の欲求の塊である"彼"の思い通りに行動してくれず、しっかりものを言ってくれない深川(吉田)に対しての苛立ちで、殴る・傷つけようとするという行動に現れたのかもしれない。要するにこれは自分に対する苛立ちで、「こうしたい、でも出来ない」というむず痒い葛藤の表現なのかな。この葛藤が「人は何かを成し遂げたいと思う」に繋がるし、ミサコが心配していた結果にも近いと思う。

 

 

 

吉田の失われた時間

物語は大抵何かが起こってしまって始まるものだけど、もしそうでなかったら、と妄想もしてしまう。仮に、深川(吉田)が狂う事がなく、本物の深川と共に無事に帰ってきてその後の人生を平穏に過ごしていたらどうなっていただろう?

そう思うキッカケになったのは、本公演のパンフレットだ。当たり前かもしれないけど、パンフレットに載っている神山くんはキリッとした洋服を見に纏いシリアスな表情。さっきまで舞台上にいたどの深川とも違う姿だ。特に気になるのは「妄想対談」のページ。幽霊ビジネスに成功した男と幽霊!みたいな書き方されてて深川として取材を受けている。劇中は着替えないだけで本来はあんな感じでおめかししたのかもしれないけど、深川より幽霊にスポットを当てるなら取材側も服装なんて気にしないのかもしれないし、あの日本兵の格好の方が"戦友の幽霊を連れている"のが視覚的に伝わりやすいからキャッチーなのかも。と話は逸れたけど。

謙虚で素朴で、(幽霊に指示されたことだけどあれを本人の潜在意識とするならば)幽霊の戸籍管理システムをきちんと構築するほど賢くて真面目な吉田。戦友だった深川(本物)が弁護士ということもあるし、2人の境遇が近いなら吉田も弁護士くらい賢さが必要な職に就いていたかもしれない。

正直、深川(吉田)って物語終了時点だと社会的能力はほぼ無いに等しいと思う。あれだけ社会が発展した中、ひとり幻覚と会話してただけだから…(勿論本人の意識の中の葛藤や精神病は本人のせいでは無いし責められるところでは無いけど) だからこそ、ミサコや深川、母からの"心の支え"や、新しい"成し遂げたいこと"は必要不可欠な要素になっていくんだろうな。

 


走る!踊る!ミサコがすごく好き!

他のキャストさんについても書きたいのだけど、とりあえず私が個人的に語りたい秋田汐梨ちゃんのミサコについて。


ミサコさん、めちゃくちゃ可愛くてかっこよかった。1公演見た後に実写版「賭ケグルイ双」の花手毬つづらちゃん役の方だと気付いた。ミサコとは役柄があまりにも違うので驚いた。ジャニーズWESTファンからすれば藤井流星さん出演 劇場版2作目の「絶体絶命ロシアンルーレット」が印象的だと思うけど、「賭ケグルイ双」は本編開始前の芽亜里(森川葵ちゃん)が主人公のお話でめちゃくちゃ面白いので是非見てほしい。花手毬つづらちゃんの秋田さんは凄くホワホワした不思議ちゃんな役柄で、濃いキャラだらけの中でもひとりホワホワがブレないつづらちゃんがとても印象的だった。

今回のミサコもとにかくブレが無くしっかりとした軸があるように思えた。観客に1番近い視点のキャラだからか、ミサコが出てくるシーンは凄く安心して見れた気がする。


戦友の幽霊はミサコに対して恋心があったが、深川(吉田)にはそこまでの気持ちが無いような感じもする。それでもミサコがずっと心配してくれていたり、幽霊抜きで会話しようとするシーンがあったりするので、全く意識しない対象とまではいかないのかな。

「また会ってくれるね?」「もう会ってるじゃない!」「あそっか。」の掛け合いでなんとなく「あそっか」がそっけなく感じるのは、本当に今後会ってもらえるかという先のことへの不安で頭がいっぱいで今を認識出来ていなかっただけなのかも。いや難しいけど。

 

 

以下、超!個人的な考え・気持ち

 

変わることへの恐怖

公演時期は12月。その頃私は転職活動真っ最中だった。新卒で入社した職場を離れる決意をした直後。嫌いで仕方ない職場を離れられる幸福感と、優しく育ててくれた先輩や取り残してしまう後輩に対する罪悪感と、なかなか面接日程が決まらず年内に内定が貰えるか不安で焦る気持ちで心がぐちゃぐちゃになっていた。

自分で言うのもおかしな話だが、今までの短い20数年間、平穏で世間的には真面目な人間として過ごしてきた。そこそこな成績で進学して、まあまあな会社に就職したはずだった。退職に至った経緯は端折るが、今回の退職・転職は自分にとってはかなり大きなターニングポイントだった。そんな心がぐちゃぐちゃな時期に、「幽霊はここにいる」カンパニーの存在はあまりにも大きかった。知っての通り幸せハッピーな演目では無かったが、神山くんに会えるということ・上質なお芝居を観る素晴らしい体験が出来るということ・戦後の時代背景やまだ自分が理解していない描写について深く考え、嫌な考え事を無いものにできるということは、とにかく心の支えだった。

今後の人生に対する漠然とした"不安"と"恐怖"、そんな不安に押し流されそうな私を奮い立たせた"心の支え"。どちらも実体は無い、目には見えない感情だ。「幽霊はここにいる」を観ておいて言いたくはないけれど、目には見えないものには強大な力がある。

吉田が"幽霊に取り憑かれた"状態から立ち直るように、今まで当たり前にあったものから離れて人生をやり直すことは本当に恐ろしいけれど、当たり前から離れたいという気持ちを信じて立ち上がるしか無い。今までの幽霊ビジネスに溢れた日常から急に引き離された吉田には不安しか無いと思うが、ミサコや本物の深川・母達から、"心の支え"という実体のない支えを受けるのだろう。

 


深川啓介は預言者か?見えない神の大いなる力。

観劇後、渋谷スクランブル交差点でキリスト教を布教する看板を持つ男性を見かけた。確か看板には「悔い改めよ」とか「人は死後裁きを受ける」とか、そんな感じに書いてあったと思う。看板を持つ男性は拡声器でぶつぶつと何かを訴え続けていた。スクランブル交差点でよく見る光景ではあるが、ふと思った。幽霊の声が聞こえる深川は預言者みたいなものかもしれない、と。

資本主義への皮肉とはかなりズレるけど、預言者とは神の言葉を預かり人々に伝える役割を持っている。目に見えない存在の伝達役という面では、深川もある意味預言者だ。幽霊ビジネスを始めた当初は、宗教団体の講演に出席したり幽霊探偵をしたり、人々に色んなものをもたらしてきた“戦友の幽霊”だが、やがて彼は自らの意思をあらわにし、思い通りにならないと遠くに行くと言って聞かなくなる。人々にお告げしたり祝福を授けたりする神とは違い、自尊心(深川の深層心理の欲求?)を剥き出しにして、後援会のお偉方の手には負えなくなっていく。

こうして見ると、見えないものを崇めたりあやかったりする行為って凄く馬鹿げているように見える。だけど私たち人間は時に神頼みをしたり占いを信じてみたりもする。「幽霊がここにいる」のチケットを手に入れたい時も私は何かに祈ったし、「オセロー」の時には謎に気合いが入って神社に当選祈願とお礼参りにも行った。"なんかそんな気がしてくるかも"に支えてもらう、目には見えない"言霊"が人に与える影響はやっぱり大きくて、そんなでも良いじゃん!きっと大丈夫でしょ!が割と好きな自分もいる。

最近安めの占いに行って、恋人が欲しいと相談してみたら、「恋人がいない方がメリットがあると思ってるね?」と決めつけられた。どうやら私が深層心理でそう言っているらしい。そりゃ面倒を見たり意識したりする人間が少ない方がヲタ活しやすいに決まっているので当たりだ。大いなる創造主曰く、「自信を持ち、自分を愛していれば、理解してくれる人が寄ってきてくれる」らしい。最後には「自分の趣味を理解してくれる人となら付き合える」と深層心理を書き換えてくれた。要するに頑張れ、ということなんだろう。

 


神山智洋は憑依型か?アイドル、俳優、クリエイターの神山智洋

神山くんのように純粋で優しそうな青年に見えて、どこか深い思想と重たい闇が垣間見える深川。心から“戦友の幽霊”がそこにいるように見せる神山くんのお芝居は、素人目に見てもリアリティとフィクションのちょうど狭間のような不思議な没入感を感じさせた。“演劇”、“幽霊”というキーワードから、“憑依”という言葉は連想しやすい。よく憑依型演技なんて言うけれど、個人的に神山くんは憑依型では無いと思っている。とにかく身体で受け止める努力をして、じっくり頭で考え、また身体で放出させている感じがする。もちろん神山くん自身の思考までは分からないし、お芝居について素人の自分がここで何か評価を出来る訳でも無いのだけど、とてもクリエイターらしい雰囲気はなんとなく感じる。

台本があり演出家の意図もあるお芝居は、決して自分ひとりの創作物では無い。神山くんの本業であるアイドルも楽曲があって事務所やレーベルのスタッフがいる。タレントだけが作るものでは無い。メンバーの作詞作曲にももちろんスタッフやアーティストの手は少なからず入るだろうし、アイドルも俳優もクリエイターも、無から何かを生み出す仕事とは言えないと思う。多かれ少なかれ縛りがある中で、いかに表現し伝えるか。そんな難しい仕事に神山くんは誇りを持っているようだし、そんな神山くんが私は好きだ。

私はライブや舞台で神山くんに会う度に、そこでしか味わえない体験をして、新しい世界を見せてもらっている。心を豊かにしてもらっている気がする。心が豊か、なんて言うとおじさんの説教ぽくて好きじゃないけれど、ひとつひとつ自分の脳みそに美しい記憶を刻み込んでいるこの高揚感は何にも変え難いものだ。

 

もしかしたら本来の原作や演出家さんが意図しているメッセージは自分には理解できていないのかもしれない、と凄く不安に思う。資本主義への皮肉は未熟な自分では言語化するのが難しく今回は書いていないけれど、自分なりに自分と重ねて思考するのはとにかく楽しい。見るものが悲劇でも喜劇でもそのどちらでも無くても、観に行くという行為自体が尊くて、観た後の後味さえも愛しい。このドキドキワクワクの為に、しみったれたこの世界で私は労働し息をしていくんだ。

 


また新しいワクワク体験ができるその日まで、健やかに待っていようと思う。